大徳寺塔頭訴訟裁許の下知状

禁制と略同じ類の文書で、広く衆庶に示す徳政等に関する掟書も、この下知状であった。その他のものとしては、次に示すような訴訟の裁許に関するものもあった。

 大徳寺同諸塔頭大工職事、大工三郎左衛門尉宗久申子細之条、被遂糺明淵底之

 処、於宗久者、無支証間、一向不能対論、至大工十郎宗次者、云手継、云証文

 理運顕然也、所詮対宗久於被成下、永正五年十二月五日御下知者、被奔破〇、

 早十郎宗次可存知之由、所被仰下也、仍下知如件、

    永正八年六月卅日

                下野守三善朝臣(飯尾之秀)(花押)

                散位神宿祢  (諏訪長俊)(花押)

                丹後前司平朝臣(松田長秀)(花押)

(右裏)

「此証文奔破之也、

  永禄九丙寅十月 日」

 

大徳寺同諸塔頭の大工職を一種の株として大工が持っていたのであるが、之に関して三郎左衛門宗久と十郎宗次と申す者が、訴訟を重ねていたが、幕府は、この下知状を以て、嘗て永正五年に宗久に対して出した裁許状を破棄して、宗次を大工職に仰付けたのである。裏書は永禄九年に宗次が死没して、その遺族がその遺言に依って、大徳寺大工職に関する証文を、挙げて同寺に寄進したが、その時寺家の役僧が此等を破棄した験を裏に加えたものである。とのことです。