下知状は、鎮西探題からも出している。上の図版に挙げるものはその一例である。
薩摩国伊作庄地頭下野彦三郎左衛門尉忠長(久長)代行長申小船壹艘事、
右如訴状者、当庄住人弥平五以下輩、対同国市来院住人志布志入道、令借用小舟壹
艘之處、件船於海路破損畢、而彼入道後家尼、帯在所領主市来孫太郎家定代七郎入
道如道挙状、以聟浄証為代官、触訴当庄領家代勝道之間、為船代引渡得善法師一類
三人於如道之後経十六箇年之處、彼尼又企奸訴及違乱云々、仍為糺明可召進件尼同
浄証等由、度ゝ被仰家貞之處、無音之間、以頴姪次郎左衛(門脱)尉久純、鮫嶋彦
次郎家藤等、重加催促之處、如久純執進今年七月二日、同十六日家貞請文者、下野
彦三郎左衛門尉忠長代行長申借船事、可相触志布志尼之處、自去五月之比、為物詣
上洛之間、不及召進、下向仕候者、忩可召進云々者、家貞背度ゝ催促、寄事於物詣
、于今不召進彼尼之條、不遁難渋之咎歟、然則、於彼船者、永可令停止件尼競望者
、依仰下知如件、
正和三年十一月廿七日
前上総介平朝臣(北条政顕)(花押)
薩摩伊作庄地頭島津久長の代官行長が、同庄内住人等が借用した小船に関し貸主側の不当を訴えた。右はこれに対する裁許の下知状である。探題一人の位署であるが、書式は関東のものと全く同じである。幕府を関東と呼ぶに対して、九州探題を博多若しくは鎮西と称しているから、この下知状を鎮西下知状或いは博多下知状と呼ぶのである。博多は探題が居ったところから称したのである。とのことです。