義維の許にあった奉行が出した奉書

大永享禄年間義澄の子義晴は細川高国に、義澄の兄義稙即ち阿波公方の子義維は、細川晴元に擁立せられて、共に将軍職を争っていたが、〔三三三〕に挙げ文書は、将軍義晴が京都を退いて近江朽木谷に籠っていた時、一方の義維が阿波から京都に出で、この義維の許にあった奉行が、享禄四年七月十日、義維の命を承って、大徳寺末寺北小路大宮妙覚寺跡に関して出した奉書である。とのことです。