下文→袖判の下文→下云々を書かない文書

第三種 禁制

又内容の特殊なものとしては、禁制制札にも、この式の文書が用いられている。即ち〔一七一・一七二〕に挙げた文書は、建武三(延元元)年七月廿一日同八月十一日、足利尊氏同直義の出した禁制である。これには上記直義の禁制に見る如く、禁制を下した場所を始めに挙げているものもある。戦国時代の大名もかかる形式で禁制を出している。例えば〔一七三〕に挙げた天文十年十二月十日、甲斐の武田晴信が、同国廣済寺に下した禁制の如きはその一例である。之を要するに、下文の中に袖判の下文が生じ、更に之に下云々と書き出すものと、然らさるものとが生じ、遂には下云々と書かないものが、後世永く用いらるるに至ったのである。かような経路をとって、下文は戦国時代に於ける諸大名の文書の中に迄及んできたのであった。とのことです。

大内義隆・今川義元の判物

第二種 判物

この形式の文書は、足利家の将軍并に公方計りで無く、戦国時代に至り諸国の大名も用いるに至った。〔一六九〕に挙げた文書は、天文十八年四月廿二日、周防の大内義隆が、吉川元春の吉川家相続を承認する為めに出したもの、〔一七〇〕は、天文十一年十二月十六日、駿河今川義元が、江尻商人宿の諸役を免除する為めにだしたものである。とのことです。

事書の有無は文書の内容に依る

右両様の文書は、細かい書式に於て相違があるが、大体に於ては下云々のなき袖署判の下文であって、即ち共に下云々の袖署判の下文の変形と認むべきである。この両様の書式の中に於て足利氏の幕府になると、袖判を加えて、事書が無くして直に本文を書き始めるものが多くなった。これはこの式の文書が所領所職の充行安堵計りで無く、他の種々の事柄に就いて出す文書にも用いるようになって来たからである。

例えば〔一六六〕に示した文書は、建武三(延元元)年六月廿五日、足利尊氏が平賀兼宗の京都合戦に於ける軍忠を褒める為めに出したもので、之は内容から云えば感状である。尤もこれから後には、事書が全く無くなったわけではなく、〔一六七〕に挙げた文和元(正平七)年十一月十五日足利義詮が、大山崎神人に、その運送する内殿御燈油の荏胡麻に対する諸関の津料を免除する為めに出したものの如く、事書が加えてあるものも間々伝わっている。又〔一六八〕に挙げたものは、関東公方足利義氏が、天文廿四(弘治元)年十一月廿二日、家督相続御判始めの吉書として出した文書であるが、かような形式のものもあった。要するに文書の取扱う内容に依って事書を加えると加えざるものとの区別を生じたと見るべきであろう。とのことです。

足利義満の袖判変形文書

                                                   (義満)(花押)

安房守憲方法師法名跡所領等事、任相伝、上椙右京亮憲定可領掌之状如件、

    応永二年七月廿四日

この書式の文書は、当時その内容に従って下文即ち安堵下文と称している。この義満の下文と同じ書式のものも、義満の時始まったのでは無く、〔一六五〕に示した如く、寛元五宝治元年二月十六日、北条時頼が、津屋惟盛と申す人をして、肥後阿蘇社の別宮健軍(たけみや)社大宮司職に元の如く就かしめるために出したものがある。当時之を下文と呼んでいる。従って前掲の袖判変形文書は、総べて下文と称して差支ないであろう。とのことです。

直に平の本文を書きだす足利義満の文書

事実前掲頼経の文書に次いで、それと同じ書式で〔一六三〕の如く、文永八年四月廿七日、北条時宗が、武田妙意と申す者を甲斐甘利庄南方地頭代職に補任する為めに出したものがある。

尚お之と大体の書式は同じであるが、始めに何々せしむべきことと云うが如き事書や、補任云々の如き文言を書かず、直に平の本文を書き表すものもある。次に挙げる前将軍足利義満が、上杉憲定にその父憲方の遺領を創造することを許す為めに出した文書は、この書式を具えている。とのことです。

実朝の菩提を弔う坊城女房

扨て鎌倉時代にはかような守護職補任の下文があったか、今その例が伝わっていないから明かでない。然し袖署判の下文と形式を異にし、ここに挙げたものと同じ形式の文書はある。即ち〔一六二〕に挙げたのはその一例である。坊城女房と申す者が、源実朝の菩提を弔う為めに、有須河堂を立て、この堂領として伊勢原御厨、越前山本庄の預所地頭両職と河内大窪庄の地頭職を寄進したが、之が認可を得んことを将軍家に請うたので、寛喜元年十一月廿六日、将軍頼経がこの文書を出して、その申請を許容したのである。一般の地頭御家人に対しては、かかる時には袖署判の下文が出たのである。坊城女房はその身分が明かでないが、実朝の菩提を弔うところから見ると、実朝と関係の深い地位高い婦人であったと推想せられる。かかる人に対して、一般の地頭御家人に出す下文と異った書式を具えたこの文書を出した点から考えると、この書式の文書は、袖署判の下文よりも鄭重な書礼を表していると見るべきである。かように考察してみると、尊氏の守護職補任の文書と同じ意味の文書が、鎌倉時代から既に存したことが知られるのである。とのことです。

地頭補任と異なり下云々のない鄭重な文書

第五類 下文変形文書

前述した下知状は、謂わば下文の変形した形式の一種と見ることができる。尚おかように下文が変形して生じたと思われる形式の文書がある。此等を下文変形文書の題目の下に類別する。而してその中を署判の位置に依って細別して説くこととする。

第一式 袖判下文変形文書

 第一種武家下文・御教書・下知状

             (尊氏)(花押)

  補任

     弾正少弼朝貞

    丹後国守護職

 右、任先例、可致沙汰之状如件、

(延元二)建武四年卯月廿一日

この文書は、足利尊氏が上杉朝貞を丹後守護職に補任する為めに出したものである。尊氏の地頭職補任の文書は、袖判の下文を用い、その例が沢山残っていることは既に述べた。然るに守護職補任のものに至っては、正文として伝わるは、この一通を知るのみ。この外には案文として〔一六四〕に挙げた建武五(延元四)年四月十四日、佐々木高氏を近江守護職に補任したものがある計りである。その文書は守護職と之に附帯した守護領をも充行っているところ、先の上杉朝貞の丹後守護職のものと多少相違している。然し何れも袖判を加えているが、下云々と書いた袖署判の下文ではない。少しの例を以て推測する危険を伴うかも知れないが、守護職の補任には、特に地頭職の補任と異る形式の文書を用いたものと思われる。守護は地頭よりも上位の職であるから、この種文書は、よし袖判に依って差出所が表してあっても、下云々の袖判の下文よりも、鄭重な書礼を具えていたものと見るべきである。とのことです。