北方・南方が位署を加えた六波羅探題の施行状

この施行状の書式を前項のものに比べると、前項のものは差出所が日附の次行にあって、而して上部に書いてあるのに対して、之にはそれが下部に記してある。ここに相違した点が現れているが、之は差出者の位置如何に依って、位署が上下その所を変えたものであって、同じく下文の変形と見るべきである。

右に挙げた施行状は、北条重時一人が位署を加えている。これは当時北方として重時一人が探題であったからである。〔一八一〕に挙げたものは、弘安三年九月五日、北条時宗東福寺の圓爾(聖一国師)に加賀熊坂庄の一方を寄進し、これが寄進を認可した下文を施行する為めに出した六波羅の施行状、之には北方北条時村、南方同時国の位署が加えてある。とのことです。

六波羅探題の施行状

第三式 奥下署判下文変形文書

 第一種 施行状

 石見国永安別符益田庄内小彌富、寸津浦、美磨博田壹町、庄久保畠壹町等地頭職

 事、

右、任今年今月三日関東御下文、藤原乙法師丸為彼職、守先例、可致沙汰之状如件

  寛元四年十一月廿一日

              相模守平朝臣北条重時)(花押)

 

寛元四年十一月三日、将軍藤原頼嗣が、袖署判の下文を藤原乙法師丸(永安兼祐)に下して、彼をして亡父兼信の譲状に任せ石見国永安別符以下四所の地頭職を領知せしめたが、六波羅探題が此下文を受けて、之を施行する為めに出した文書が前掲のものである。これを施行状と称している。かかる下文に依って知行を充行い、又右の如く安堵の沙汰を致すとき、その領地が六波羅探題所管の国々にある時は、必ず右の如き施行状が出て、単に将軍家の下文のみで沙汰が済むものではなかった。とのことです。

大内義隆・徳川家康の判物

第二種 禁制

又寺院に対する禁制、寺領安堵の為めに出した例として、〔一七八〕建武二年四月廿五日、因幡国名和長年が、同国新興寺に下したものの如きがある。

第三種 判物

戦国時代の大名の中にも、この式の文書を出している。〔一七九〕天文十一年四月六日、大内義隆厳島社の転経料寄進の為めに出したものはその一例である。又徳川家康も之と同じ形式のものを出している。〔一八〇〕はその一例で、慶長六年七月廿五日、大山崎八幡宮社領を、検地の結果も従前の通り、安堵せしめる為めに出したものである。とのことです。

 

取扱う内容が一致しているところから同じ書止めを用いた

足利幕府初世に於ては、訴訟の裁許は専ら直義のこの形式の文書で伝え、之を下知状と云っている。尚お之と同種のものを示すと、〔一七四〕の如ものがある。即ち暦応四(興国二)年十月廿三日直義が、備後国浄土寺雑掌祐尊の同国金丸名に関する訴訟を裁許したもの、又〔一七五〕の如く嘉慶元(正中四)年十一月三日、北野宮神人の麹役に関する訴訟を裁定したものがある。此等は何れも書止めが下知如件となっている。前項に於て説いた如く、鎌倉幕府が諸事の訴訟を裁許する為めに下知状と称する文書を用いたが、その書止めが右と同様みな下知如件となっている。この幕府の下知状と、ここに挙げた文書との本質は相異るが、その取扱う内容の一致しているところから、かくの如き文言を同じ様に書止めに用いたものと考えられる。

訴訟の裁許に次いで、所領の襲領安堵の場合に出した例としては、〔一七六〕暦応四(興国二)年閏四月十七日、直義が、紙屋川三位教氏をして河内国西氷野庄内の新田村并下村等の地頭職を安堵せしめる為めに、〔一七七〕応永十五年十月五日、将軍義持が、東寺をして同寺領大和国弘福寺并に河原庄を安堵せしめる為めに出したものがある。とのことです。

東寺に伝わる足利直義の下知状

第二式 奥上署判下文変形文書

 第一種 下知状・御教書

 東寺雑掌光信申播磨国矢野庄例名内那波浦并佐方浦領家職事、

右、彼地者、去正和二年十二月七日、後宇多院御寄附當寺以来、帯文保元年十月日

院庁下文、正中三年三月十八日官符宣、建武三年十二月八日院宣等知行無相違之處

、自暦応三年、那波浦地頭海老名源三郎、佐方浦半分地頭七澤左衛門太郎等押領之

由、就訴申、為布施弾正忠資連奉行、数ヶ度成召符訖、爰如神澤六郎左衛門尉秀信

、粟生田又次郎行時今年三月廿三日両通請文者、企参洛可明申之由、雖加催促、不

及請文散状云々 起請詞載之 者、背度々催促、不参之條、無理所致歟、然則任惣庄

例、可全雑掌所務、次押領咎事、可収公所帯五分一、次押領以後得分物事、可糺返

之状、下知如件、

    貞和五年閏六月廿七日

左兵衛督源朝臣(直義)(花押)

 

この文書は、足利直義が、東寺雑掌光信から同寺領播磨矢野庄例名内那波浦并に佐方浦の地頭の押妨を訴えた訴訟を裁許する為めに出したものである。地頭海老名源三郎、七澤左衛門太郎は、訴訟に依り召符即ち召喚状を受けたが、参洛するよしの返事も奉らないが、それは無理のあるが為めに出頭しないであろうと云うことに定まり、雑掌方の勝訴に帰し、雑掌の年貢取立を全くせしめ、又地頭の押領の咎として財産の五分一を没収し、押領以後の収納物は返却するようにと裁定したのである。

この文書の形式は、冒頭に先づ文書に表さんとする要項を書き而して本文に及んでいる。始めに下云々と書くのを略したものとも見られるが、又前項に挙げた下知状が、奉書の形式をとらず、直接出す形式に変ったものとも見られる。とのことです。

   

 

 

戦国時代特殊な名称のないものを判物と称す

総じて室町時代以後は、上から下に逮ぶ文書で、花押の加えてあるものを御判と云い、又御判物とも称し、極めて内容に特徴のあるものを、この汎称と異った特殊の名称を以て呼ぶのが、一般の傾向であった。そこで部類編に示した如く、鎌倉時代迄は何れも下文と称し、建武以後は将軍家よりの所領充行安堵のものには、下文と御判の御教書との両様を称し、特殊な内容を持っているもので、当時特殊な名称を以って呼ばれたものは之を採り、戦国時代に至り、諸大名のものにして特殊な名称を以て呼ばないものを、おしなべて判物と称しておけば、先づ当時一般に用いていた文書の名称に適合するであろう。

尚おここに挙げた袖判の変形下文の書式をとった文書が、文書の儀礼上如何なる位置を占めるかに就いては、続いて後項に記述する文書と相並べて説くこととする。とのことです。

下文から御判の御教書へ

然し右は文書の形式に就いて云い得ることであって、その名称の上に於ては、必しも下文とは称していなかった。鎌倉時代に於ては袖判計りのものも、袖判があって下云々と書いているものも、同様に下文と称していた。之は文書の取扱う内容が、両者ともに共通していた関係にも依ることであろう。然るに建武以後の文書に就いては、必しも下文とは称していなかった。その内容に依って、又それを出す人の地位にも依って、それぞれ異る名称を以て呼んでいた。即ち将軍家から軍功を褒める為めに感状として出すものは、御感の御教書と云い、又所領所職充行安堵の場合には、下文とも又御判とも称していた。既述の如く義満以後所領充行安堵の場合、袖判を加えた下云々の式のものは出ることが止み、下云々と書かず単に袖判を加えて直に本文を書き始める式のもの計りとなったが、当時後者が前者とその内容を共通にしていた点と、又永い間の伝統に依るものか、後者をも前者と同様下文と称していた。然し次第に此名称は廃れて、何時の間にか専ら御判の御教書と称するように変って来た。とのことです。