取扱う内容が一致しているところから同じ書止めを用いた

足利幕府初世に於ては、訴訟の裁許は専ら直義のこの形式の文書で伝え、之を下知状と云っている。尚お之と同種のものを示すと、〔一七四〕の如ものがある。即ち暦応四(興国二)年十月廿三日直義が、備後国浄土寺雑掌祐尊の同国金丸名に関する訴訟を裁許したもの、又〔一七五〕の如く嘉慶元(正中四)年十一月三日、北野宮神人の麹役に関する訴訟を裁定したものがある。此等は何れも書止めが下知如件となっている。前項に於て説いた如く、鎌倉幕府が諸事の訴訟を裁許する為めに下知状と称する文書を用いたが、その書止めが右と同様みな下知如件となっている。この幕府の下知状と、ここに挙げた文書との本質は相異るが、その取扱う内容の一致しているところから、かくの如き文言を同じ様に書止めに用いたものと考えられる。

訴訟の裁許に次いで、所領の襲領安堵の場合に出した例としては、〔一七六〕暦応四(興国二)年閏四月十七日、直義が、紙屋川三位教氏をして河内国西氷野庄内の新田村并下村等の地頭職を安堵せしめる為めに、〔一七七〕応永十五年十月五日、将軍義持が、東寺をして同寺領大和国弘福寺并に河原庄を安堵せしめる為めに出したものがある。とのことです。