右大将を辞退したので前右大将家政所から下文を出す

源頼朝の出した下文は、右に掲げた建久四年よりも遥かに早く、寿永年間から出したものが伝わっている。早いときのものは、右の図版に見るところとは異なって、後項第三六図に挙げた如く、袖に花押を署して、書出しに単に下と記したものであった。しかるに建久元年十一月、頼朝が三位大納言に任叙せられ、また右近衛大将に兼任せられると、京都の諸卿と同じように、翌二年正月家の政所を開設して、家司をして政所下文を発せしめた。〔一〇五〕に示す建久二年二月廿一日附前右大将家政所下文は、今遺るこの種文書の初見である。前右大将家というのは、大将に兼任せられた翌月これを辞退しているからである。とのことです。