国の知行主が袖判を据える

 次に 国司の庁宣にして袖判を加えた文書は、かなり多く伝わっている。管見では〔一二〇〕に挙げた応保二年三月七日附、下野国司から留守所に下した文書が初見である。以後鎌倉時代に入ると、袖判の無いものは稀となり、袖判のあるのが通例となっている。

これと同時に袖判のあるものには、奥署判に守、大介の位署の中に花押が書いて無い。これはいかなる理由に依るのであろうか。守、大介が袖判を加えるように変わったものであろうか。否左様では無い。前記応徳二年の庁宣にも、また久米田寺文書の中にある〔一二一〕正治元年九月附和泉国庁宣にも、大介の署判と同列に袖判が加えてあるから、大介が署判を加える箇所を袖に変えたとは考え得ない。また大介と守とは大体同位の者であるから、大介が奥署判で守が袖署判とも考え得ない。これは恐らく国の知行主すなわち領主が袖判を加えたものであろう。

知行主といえば守大介の上に立つ地位にあるから、守大介の奥署判に対して、袖署判は相応した遣方というべきである。この袖判の多く見えてくる傾向は、国の領主の権威が増大して、国務を執るべき国司の実力が減少したことを示す現象であって、鎌倉時代に至って国司の威力がいかに変わってきたかを如実に物語るというべきである。とのことです。