庁宣(ちょうせん)は、広義の下文扱い

〔一二二〕に挙げたのは、鎌倉時代においても、なお袖判と大介の署判との二つのある例。嘉禎三年五月、長門国主藤原為長が、留守所をして、同国赤間関阿弥陀寺の供田十二町を不断念仏用途に充てしめるために出した庁宣である。

〔一二三〕は、延応元年十一月、若狭国主が留守所をして、一旦倒された太郎保を更に立てて、仁和寺御室の御領と為さしむるために出した庁宣であるが、これには大介の署判を闕いている。とのことです。

庁宣は、「ちょうぜん」だと思っていたのですが、「ちょうせん」が正しいようです。下文の項目に、庁宣が含まれていることについて、疑問に思ったので、前のページを振り返ってみました。

此等庁宣、下文は、その文書の系統を官宣旨の下文に引くので、之を総括して広義の下文と称して取扱うこととする。p.258

とありました。ちなみに佐藤進一『古文書学入門』では、庁宣と下文は別扱いとなっていました。