国司ではなく国主の袖判の下文

第二種 国領主下文

国司の庁宣に国の領主が袖判を加えたものが現れてから、従来の守大介の署判が全く無くなったわけではない。またその署判が無いものでも、署判だけを闕いた位署は、文書の形式上必ず書いてある。従って国の領主の袖判のみで、守大介の署判を闕いている庁宣は、実質上は国の領主の下文で、形式上国司の庁宣と見做すべきである。

およそ平安時代において下文といえば、位署は奥署判を通例とし、これあるが上にもなお袖判を加えたのは、文書の様式上著しい変化である。而してその実例として既に説明した大宰府并に国司の下文は、実質的と形式的との要素が一通の文書に兼ねて具わっているのであったが、この二の要素が分化して、袖判を加えた下文で、しかもそれが形式的でなく実質的なものが現れてきた。その例を国に関係した文書に求めることができる。

この実例はあまり多くないが、〔一二四〕に挙げた文書はその例に当たる。元暦元年八月九日、源惟義が伊賀国務を知行していた時、在庁官人に下した下文で、守大介の位署が全然書いてない。加之(※)袖に在判とあり、もと袖判が加えてあったのであるが、その註釈に国務を奉行すなわち知行すると雖も国司で無いから大介の位署が無く、国務を知行する者の袖判のみ加えた由が書いてある。この記事は、前記庁宣の袖判が国主のものであることの明確な拠りどころになる。とのことです。 

(※)加之=しかのみならず