詔書の手続きがさらに煩雑になります

平安時代中期ごろに手続きが変わった。西宮記、北山抄によると、

1 上卿(その日の政を扱う上位の公卿)勅を奉り、中務省の内記に詔書を作らせる。

2 上卿、太政官の外記より筥を召し、詔書を中に入れ内記に持たせて御所に就いて奏す(詔書草奏)。

3 返給わって内記之を黄紙(黄麻紙)に清書して更に奏聞す(詔書清書奏)。

4 御画日。

5 上卿、之を賜りて、太政官の陣の座に帰り、中務輔を召して渡す(罪科赦免に関するときは検非違使を召して仰す)。

6 中務省に之を留め、さらに一通を写して年号日附の次行に輔一人名を署し、太政官の外記に進む。

7 外記この奥に新たに紙を継ぎ諸卿の署所(官位姓)を連記し、この下に諸卿の名を取る。

8 大納言陣の座に着き、外記之より詔書を覆奏せんことを、大臣をれば先づ之に告げ、その許可により大納言に申す。

9 大納言許諾す。

10 外記詔書を文杖に挿んで、陣の前の小庭に候す。

11 大納言これに目配せする。

12 外記詔書を進む。

13 大納言之を披見し、御所に就き内侍に付して奏聞す(内侍なきときは蔵人に付して奏聞す)。

14 諸卿の連署年号日附の次行の上部に、「可」の一字を宸書せられ下し給う。

15 返し給わって、大納言陣の座に着し、御可即ち御画の有無を検して、之を庭上に候する外記に給う。

16 外記更に一通を写して左右の辨官に渡す。

17 辨官、謄詔符を作って施行す。

 

これを太政官陣の宣下という。鄭重を極めた手続きだった。後になると簡便な手続きである消息宣下となる。大納言は上卿のこと、上卿は公式令中務卿と大納言が勤むることを一身で行うものであった。とのこと。

ふー。理解がついていってません。でも粘り強く進んでいきましょう。

天下太平の四字あらわる! 宣命!

第一部 公式様文書

第一類 詔書 宣命

 詔―臨時の大事

 勅―尋常の小事

読み聞かせるから万葉仮名でこの文体を宣命体と称する。

1 中務省の内記御所にて作る。

2 御画日(ぎょかくにち)、例えば一日の「一」の字を宸筆。

3 中務省に案として留め、一通を写して、卿「宣」大輔「奉」少輔「行」と書き、中務省の印を捺して太政官に送致する。

4 太政大臣左大臣、右大臣が官位と臣の字を加えその下に「朝臣」と書く。

5 四人の大納言が官位と臣の字を加えその下に自ら名を書き、詔書を奉って、外に向かって施行せんことを奏上する。

6 御画可(ぎょかくか)、奏聞の日付の次行に「可」の字を宸筆。

7 太政官ではこれを案として留め外に向かって二つの手続きを執った。

8 在京の諸司、諸衛には、別に詔書を写し、太政官の符という文書に詔書を頌下する意味を書いて之に副えて下し、宣命使をして詔書を読んで伝えしむ。

9 外国即ち地方の官庁たる大宰府国司に対しては、詔書を写すことなく、その文章を太政官の符のなかに記載して、この官符を八枚作り、五畿七道に下した。詔が謄写してあるからこの官符を謄詔符という。

ややこしくなってきましたので、いったん休憩しましょう。

古文書の形様のはじまり

国史に関した文献上の史料として実物の伝わる最古のものは、

 「漢委奴國王」の金印。

我が国で作った最古のものは、

 紀伊隅田八幡神社の鏡。

次に古いのは、

 元法隆寺、御物の如意輪観音像の白座框縁 推古天皇丙寅年

 法隆寺薬師如来蔵の光背 推古天皇丁卯年

墨筆を以て書いた最古のものは、

 元法隆寺、御物の聖徳太子御筆の法華経義疏 推古天皇二十一~二十二年

これに次ぐのは、

 元法隆寺、京都小川睦之輔氏所蔵の金剛場陀羅尼経の第一巻 天武天皇戌年

以上のものは、古文書ではない。古文書として最古のものは、

 文武天皇大宝二年の美濃、筑前豊前、豊後の一部分の戸籍

大宝律令は、大宝元年に成った法令で、いま伝わるものは、養老二年修定したものといわれている。この令のなかの一巻に、公式令といって文書に関する規定が含まれている。

公式令に様式の規定してある古文書を、第一部とする。

平安時代に新たに現れた公の文書、次いでその系統を引く文書を、第二部とする。

平安時代末期から、書状消息を書札と呼び、書札様文書を、第三部とする。

室町時代末期から、印を捺した文書を印判状と呼び、第四部とする。

下位の者から上位の者へ差しあぐる文書を上申文書として、第五部とする。

神仏に対して奉った文書を、神仏に奉る文書として、第六部とする。

後日の証拠として書き置く文書を、諸證文として、第七部とする。

 

中編は後編と対比してみる必要がある。中編の〔 〕のなかの数字は、後編の通し番号となっているので、番号で探してもらいたい。とのことです。 

以て先人の努力に報いる

第四章 第二節 古文書伝存の特殊状況 です。

まとめに入ります。

社寺は、京都奈良を中心に多く、そのほかは、鎌倉を除いて、だいたい平均している。

武家は、九州一円、中国の西部、東北地方に多い。九州は、松浦党、肥後人吉の相良家、阿蘇家、島津家。中国西部は毛利家。東北地方は、上杉・伊達・佐竹三氏。この三地域を除くと十中三にも及ばないだろう。武家の文書が近畿或は関東地方に少ないのは、諸氏の興亡が激しかったためである。坂東八平氏、武蔵七党の栄えた相模武蔵の両国に武家家伝の著しいものは一家もない。他の地方に移ったものばかりである。

薩摩の二階堂(相模)、渋谷(相模)、肥後の小代(武蔵)、肥前の深堀(上総)、豊後の大友(相模)、安藝の毛利(相模)、小早川(相模)、熊谷(武蔵)、備後の山内首藤(相模)

従つて武家家傳の古文書を研究資料として使用するに當つては、先づ以て右に述べた傳来の實情を知つて置く必要がある。研究資料を探索するにも、順序のあることを心得て居らなければならない。

庶民所持の古文書。武家の状況と大いに異なる。近江、若狭に多く、東国にては、信濃遠江駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵など青木敦書が採訪した地に多い。もと徳川家の領地だったからか、青木が尊重すべきことを鼓吹したからか著しい特色である。大体永正の末年から天正文禄のころに及ぶ文書で、今川、北条、武田、徳川諸氏が出した判物、印判状が主なものである。武家家伝の文書の多い、九州、中国地方には多く存在していない。

地方によって古文書伝来の実状の異なることをよく知って、その地方に伝わる古文書が、他の地方にあまりないもので、史料として特別重要な意義を持っているということを理解しておかなくてはならない。

又かゝる特別な意義を持たない、どの地方にもある古文書を傳へてゐても、それがどの家にもあると云ふわけではなく、今日その傳存を見たのは、之を傳承した先祖代々の努力に依るものであるから、現在所持してゐる者は、更に子孫に向つて之を大切に傳へて行くやうに努めねばならぬことはこゝに申すまでもない。

 

古文書が本質上の力を離れても、尚ほ傳来するに至つた機縁は、實に古文書を歴史資料として重ずるところにその根基が存したのである。

 

我等は益〻古文書の史料として価値あることを究明し、その保存の途を講ずると共に、之を充分研究資料として活用し、之に依って光輝ある我が歴史に彌〻光彩を副へんことに努め、以て先人の努力に報いるところが無くてはならぬと信ずる次第である。 

 〻=この記号、「にのじてん」ででるのですね。はじめて知りました。

これで前編は終了です。次回からいよいよ中編古文書の形様に入っていきます。

授受した先代と異なるところに伝存する古文書もある

第五項 諸所の蒐集古文書 です。

古文書は、それを授受したものの後代のものが所持することが原則だが、献納したりやむなく他の者に渡すこともあり、今日全く関係のなかったところに伝わることもかなりある。

内閣記録課。明治時代修史局開設のころ所々から献納したもの、購求したものがある。

諸学校。国史研究資料として、寄贈をうけ、或は購求したものがある。

東京帝国大学京都帝国大学。諸家の古文書伝来の項で述べたごとく、一家に伝わった文書がまとまってその所蔵となっているものがある。

個人。考古の趣味を有し、歴史を尊重する精神から、古書古文書の伝存に寄与している諸家も少なくない。

江戸城石垣修理の文書、伺いを立ててから保存

庶民伝来の古文書 です。

紀伊に、庶民にして南朝の綸旨を伝えているもの、武家として活躍後、子孫が帰農。

東国に、庄屋名主の子孫にして今川・北条・武田などの知行充行の判物、感状、印判状を伝えているもの、大名に仕えたもので後に郷村の名主となっているもの。

室町ないし戦国時代から、庶民として工商や芸能に従事し特権に関する證文を伝えているもの、町方農村共有の文書を伝えているもの、名主庄屋肝煎にして一村に関した文書を伝えているものがある。

町方の文書。京都上京の文書。

山村の共有文書。甲斐南都留郡西湖村の文書。同郡鳴沢の巣鷹をする義務を負わされていた文書。

一町の共有文書。駿河庵原郡由比駅の文書。

個人の所有で農村に関するもの。相模高座郡田名村名主江波氏の文書、虎の印判状を多数伝えている。

宿駅に関するもの。武蔵程ヶ谷宿旧本陣軽部家の文書、慶長六年から明治初年に及ぶ前後一貫したものを伝える。

海村に関するもの。若狭遠敷郡多烏の秦氏の文書、海村の鎌倉時代預所以来のものを伝えている。伊豆田方郡木負の大川氏の文書、小田原北条氏以来の無慮(むりょ、おおよそ)千を数える、いま澁澤子爵家の所蔵。

殖産工職に関するもの。越前今城郡五箇庄村の越前紙の産地で三田村氏の紙漉業に関する文書。尾張東春日井郡瀬戸の加藤氏の陶磁器業に関する文書。相模小田原の青木氏の石工棟梁に関する文書、江戸城の修理に関するものがあり、幕府に保存していいか伺いを立ててから保存している。

商業海外貿易廻船業など。京都の角倉氏、大坂の末吉氏、伊勢津の角屋氏、越前敦賀の小宮山氏、筑前博多の島井氏、神屋氏の文書。

町方商業。若狭小浜の橘氏、周防防府の兄部氏、会津若松の梁田氏の文書。

 

織豊時代からの古文書を伝える諸家

以上は、鎌倉時代室町時代に守護地頭御家人として活動した武家に伝わった古文書を主としていたが、戦国時代以後世に著れて古文書を伝えた家も少なくない。

安藝廣島の淺野家、筑前福岡の黒田家、肥前佐賀の鍋島家、阿波徳島の蜂須賀家、伊予大洲の加藤家、土佐高知の山内家、近江水口の加藤家、石見津和野の亀井家、信濃松代の真田家などは織田豊臣時代以来の古文書を伝えている。

なお、前段に述べた、島津、毛利、吉川、小早川、伊達、上杉、細川、相良の諸家もこの時代の古文書を多数伝えている。