全文宸筆の諡号勅書

〔八〕後花園天皇宸筆諡號勅書

御画日(ぎょかくにち)だけでなく、全文宸筆のもの。

夢窓疎石は、後醍醐天皇以下から五つの徽号を賜っていたが、後花園天皇が更に佛統国師の徽号を加諡したときのもの。中原康富の日記にも全文宸翰であったことが記してあるとのこと。その後、後土御門天皇の代に諡号を賜ったので、七朝から徽号、諡号を賜ったので、「七朝の国師」という。

このころから、国師号を賜るとき、全文宸翰とする勅書がはじまったようである。室町時代の末期から一山の開祖の遠忌の仏事ごとに諡号を賜る慣例となっている。

徽号か諡号か

〔六〕醍醐天皇贈位諡號勅書

官職に相応して位階を賜った。この時出す文書を位記という。醍醐天皇が、園城寺開祖円珍に、僧官の極位法印大和尚位を贈り、智證大師の徽号を贈られたもの、ということですが、「故天台座主少僧都円珍」とあるので、生前の徽号ではなく、諡号(しごう、貴人・僧侶などに生前の行いを尊んで贈る名)ではないでしょうか?

位を賜ったから位記であるが、徽号を賜っているので、勅書とも称すべきものである。後世このように徽号を給うときには勅書をくだされた。図版はその例で、明応六年に大徳寺塔頭大用庵主實傳宗眞に、生前、佛宗大弘禅師の号を賜ったもの。

〔七〕稱光天皇諡號勅書

称光天皇が、応永廿年三月廿三日、山城賀茂正伝寺の開祖東巌慧安に宏覚禅師の諡号を贈られたときのもの。蒙古襲来の折り、敵国降伏の祈願をしたことで有名。御画日は、図版の「十四」二字とは異なり、「廿三日」の三字となっている。

阿衡の任を以て、卿の任となすべし

第二類 勅書 に入ります。

公式令義解によれば、大命中、尋常の小事に用いるのが勅である。

1 勅を奉る人が、中務省に宣べ送る。

2 中務省にて覆奏を致す。

3 終わって之に卿以下の署名を取って案として留めておく。(この時には御画日は加えない)

4 中務省に於いて、更に一通を写して太政官に送る。

5 太政官に於いて、外記之を書き、名を署し、尚大辨・中辨・小辨の辨官が名を署して案として太政官に留めて置く。(この場合詔書のように太政官から覆奏しない)

令集解によると、太政官から外に向かって施行するには、詔書と同様の手続きをとり、この時外国に下す太政官符を謄勅符と称する、ということです。

〔五〕宇多天皇勅書

文中に「宜以阿衡之任、為卿之任」の句があり、阿衡事件の基となった。大臣の上表に対して勅答あるときは、皆勅書を用いることとなっている。とのことです。

織田信長に太政大臣従一位を贈る

〔四〕正親町天皇宣命

織田信長太政大臣従一位の官位を贈られたときの宣命。料紙は黄紙、日附に御画日「九」。このころには後に紹介する徽号(きごう。天皇が高僧に生前贈る号)勅書と同じように、日附を加え且つ御画日を加えることとなっていた。信長の菩提所のため、大徳寺総見院に伝わったものだろう。

詔書の本文はすべて内記の書くものであった。

清書奏の時の料紙は、黄紙すなわち黄麻紙。草奏、覆奏のときは不明。古い時代の詔書宣命の正文の伝わるものはない。

延喜式によると、

大神宮 縹紙すなわち縹麻紙

賀茂社 紅紙すなわち紅麻紙

石清水以下 黄紙すなわち黄麻紙(おうまし)

を用いたという。とのことです。

頼長朝臣、流れ矢に中る

〔三〕後白河天皇宣命

保元の乱の乱後の処罰を石清水八幡宮に告げさせた宣命平安時代中期ごろから、読み宣ぶる詔を宣命と、文章に書き表して宣読を主としないものを詔書と区別するようになった。神祇に告げ奉るものは皆宣命と申した。

後昆(こうこん)後の世の人。

弖(て)阿弖流為の「て」ですね。佐藤進一『古文書学入門』ではp.74に他に、我(が)、尓(に)、波(は)、支(き)、良(ら)、祁(け)、留(る)、止(と)が宣命書きとして紹介されています。祁は祁答院(薩摩郡)の「け」ですね。

二十年に一度、十一月朔日が冬至となる

記念すべき第一号の文書です。

〔一〕文武天皇元年八月十七日御即位の詔

文書の始めと終わりに、主格・対格を表す書式は、日本固有のものだそうです。

〔二〕醍醐天皇朔旦冬至

十一月朔日が冬至にあたるのが、二十年に一度あり、これを祥瑞として出した詔。純然たる漢文体。日附の次からは作成公布の手続きを示している。中務少輔が一人で、「宣、奉、行」をいたし、ここまでが中務省で書いて太政官に送った文、次に大納言以下が太政官の覆奏の文、終わりの「可」は宸書である。ただしこの文書は写として伝わったものである。

御画日のところは、中務省から写して太政官に送ったものであるから、この文書の正文にも宸書の文字はなかったはずである。宸書のものは中務省に留まって覆奏のものには用いなかったわけである。

覆奏の文は、「詔書右の如し、請ふ、勅を奉(うけたまは)り外に付して施行せん、謹(かしこ)みて言(まう)す」と読む。

ふー。ややこしくなってきました。一歩一歩すすんでまいりましょう。

「らまと」とは?

第一図に掲載されている孝謙天皇宣命案。その冒頭、

天皇大命良末等 とある、この「らまと」が分からなかったので、検索したのですが、なかなかわかりませんでした。

こんなときの佐藤進一『古文書学入門』。索引が古文書学小辞典としても使えるんだよと石井進氏がどこかに書いていたので、引いてみたのですが、ここにはありませんでした。本文の「詔書」をみていくと...あった!ありました!

p.58です。

良麻止(ラマト)、良麻止は臣をヤツコラマ、御裔僕 をミナスヱヤツコラマというように、ある言葉につけていう辞で、特別に意味はない。

とのことでした。すっきりしました!

 

※その後、「らま」で引くと出てきました。

 らま(ラマ)とは - コトバンク (kotobank.jp)