大宰帥が管下に出す大宰府庁宣

第二種 大宰府国司庁宣

官宣旨に系統を引いて発展した下文を、その細かい書式によって分けてみると、書出しに何々下もしくは単に下と書くものと、何々宣即ち宣と書くものとの二様がある。大宰府ならびに諸国司からこの宣を出している。これを庁宣と称す。

い 大宰府庁宣

大宰府庁宣は、大宰帥が管下に出す文書である。この庁宣はいつごろから始まったか明らかでない。管見においては〔八一〕に挙げた保延七年の庁宣が最初のものである。この文書には庁宣と書出してある。蓋し大宰府管内に限って出すものであったから、単に庁宣と書いて差支えなかったことは、前に述べた国符と同様であったのである。然るに大宰府管内には九国があり、ここからも次に説くごとく他の諸国と同様に庁宣を出したのであるから、これらと識別するために、後に至って大宰府の庁宣が変わって、大府宣と書出すようになった。大府宣は大宰府庁宣を略して呼んだ名称であろう。〔八二〕に収めて示した文書はその一例である。

〔八二〕の大府宣は、法橋重賢という者を、薩摩国満家郡の郡務職に補任するためにだした文書である。平安時代中期以来遙任の制度が盛んになった。この文書に位署を加えている帥中御門経任は任地に下らずすなわち遙任にしてこの文書を出したのである。そこで文書の充所が大宰府在庁官人となっているのである。すなわち任地にあって実際の庁務に携わっている者を在庁官人と申したのである。これは諸国司においても同様であった。とのことです。