多数の院司が名を連ねる院庁下文

〔九一〕に挙げたものは、永暦元年後白河上皇の院庁から、山城国司の在庁官人に下して、伏見庄民の木幡浄妙寺領を押妨するを止めたものである。かように国司に向かって出すものもあった。この院庁下文には浄妙寺境内にある摂政関白家の墳墓に関する記事もあり、この方面の史料として極めて重要なものである。またこの下文には院司が多数位署を連ねている。前掲図版に示したものには、院司の数が多く現れていないが、たいていの院庁の下文には、右のごとく多数であるのが通例となっている。

院庁の下文は申すまでもなく、院政の行われていた時代に出たものであって、いわゆる院政時代すなわち平安時代末期のものが比較的多く、鎌倉時代のものも伝わっている。下文の中でも重要なものであった。とのことです。