所領充行は下文下知状、所領安堵は外題安堵

この規定が何時成立したかは判然としない。然るに嘉元元年即ち将軍久明親王、執権の師時、連署の時村の時代から、安堵の手続が終了すると、安堵下文、下知状を別に下さず、此の譲状のように譲状の端の余白に、この譲状に任せて領掌して差支なしと云うことを書き、執権連署(この譲状の場合では北条高時、金澤貞顕)が署判して、安堵の申請者に下すのである。その書式は大体前述した下知状の式に従っている。下知状は日附の下に差出所を書かないのが普通であるけれども、外題安堵は、この譲状に見る如く、執権の署名が日附の下になることもある。これは料紙の余白の狭い所に書くために自から起こった書式であろう。また外題安堵は、この譲状のものの如く、料紙の端の余白計りで無く、奥の余白、或はまた料紙の裏面に裏書の形式で書くこともある。それでも一様に外題安堵と云っている。

 要するにこの外題安堵は、安堵の手続を簡便に取扱い、譲状と安堵下文或は下知状とが離れている不便を救う為に講ぜられたものと考えられる。従ってこの文書は安堵の手続の変遷を示す史料として極めて興味のあるものと云はなければならない。尚ここに譲状と外題安堵とによって一種の複合体の文書の生じたことに注目すべきであるが、又この文書を用いた結果、単独に発せされた安堵の下文が廃れ、将軍家の下文を発する事項の範囲が愈々限られて来たことにも注意すべきである。

 要するに、嘉元以後においては、所領充行(附与)の場合と、所領安堵の場合とによって、其の発する文書に截然と区別が生じていたのである。即ち前者は下文下知状、後者は外題安堵によったのである。とのことです。