図版に挙げた勅書の料紙は白紙で、徽号勅書には白紙が多く、まゝ黄紙を用いている。
御画日は、日の数のみと、日の字までを加えたものがあった。公式令義解には、勅に関しては御画日ならびに御画について記されていない。詔について令義解に御画日ならびに御画のことについて記しているが御画日の両様に関しては記されていない。令集解に引用してある諸説ならびに西宮記北山抄は、詔の御画日は、日の字までを加えたものとしている。北山抄には、詔書勅書ともに御画日を用い、覆奏の文にも「可」の字を書いたとあり、従って平安時代には詔書勅書ともに御画日があり、それが日の字までを加えたものが通例であったのである。
その後御画日が日までと日の数と両様になった。鎌倉時代の末、正慶の改元詔書を大内記が書き誤って日の字まで書いたので儀式が遅れたことが花園院宸記にみえる。これは当時日の字まで宸書せられるのが定めであったことを示している。日の数までの実例は室町時代初期のものにあるから※、日数のみのものが始まったのは、鎌倉時代後、室町時代初期までのころだと思われる。
※前記の如くとありますが、見当たりません(泣)
〔四〕の正親町天皇の宣命は、日数のみとなっている。当時は詔書宣命勅書いずれも日数のみを用いるようになってきたものと考えられる。
なお、詔書といえども、重事でないと、御画日も行われず、すべて大内記が記したことが花山院宸記に見えている。徽号勅書のなかにも、まま御画日として宸書をしないものがある。このように事の軽重におって、区別が生じてきたのは、文書作成上の制規を考えるうえで注意すべきことである。とのことです。