隠居後、虎ノ印判から「武栄」の印を用いるようになった北条氏康

更に〔五一九〕は、永禄十一年六月六日、北条氏康が、伊豆田方郡江間の鍛冶八郎左衛門に、鍛冶の番役に関する掟を示したもので、縦二寸五分横一寸九分重郭、印文「武栄」の朱印が捺してある。この印は氏康が隠居した後、永禄九年頃からその没年元亀二年迄用いたものであった。氏康は隠居後も、当主氏政の後見として重きをなしていたが、虎ノ印判は当主氏政の許に備え、氏康は別にこの印判を用いていたのである。とのことです。