2022-05-01から1ヶ月間の記事一覧

綸旨院宣は武家申次の公卿から幕府に取次ぎ下へ施行された

当時京都から綸旨院宣が下されていたが、之は直接地頭御家人等の如き武人に賜ることは無かった。即ち京都から綸旨院宣に依って命を伝えらるる時は、武家申次の公卿に伝えて、之から幕府に取次ぎ、幕府から綸旨院宣を下へ施行する手続をとったのである。との…

充所の無い綸旨、後村上天皇の御代にも多く出る

元弘三年から従来綸旨を受くべき資格のなかったものが綸旨を受けるようになったので、かかる充所の無いものが下されたものと思われる。この書式のものは以後後村上天皇の御代にも多く出ている。而して皆地方の武人に賜ったものである。とのことです。

必ず充所がある執達如件

而してかかる綸旨の書止めは「悉之」即ち「之を悉せ」若しくは「悉之、以状」即ち「之を悉せ、以て状す」である。この文言は書止めの例文としては鄭重なものではない。当時の綸旨の例に就いて見ると、悉之が最も下で、この上が悉之以状、それから状如件、そ…

地頭御家人等地位の低い者に賜った綸旨

扨てかように充所の無い綸旨は、従来無かったものであって、この時から下されたのであるが、それは何れも地頭御家人等地位の低い者に賜った。かような地位の低い者には、充所のあるのは書礼上厚きに失する嫌があるので、之を省いたものと思われる。とのこと…

安芸の吉川経長に参陣を促す

尚この書式のものに、〔二七一〕の如きがある。之は元弘三年四月十九日、安芸の吉川経長に参陣を促されたものであって、料紙は白紙で、普通の大きさである。先の出雲高保に下されたものも、恐らく之と同様のものであったと思われる。とのことです。

料紙は普通の大きさの宿紙

その初見の綸旨は、実に〔二七〇〕に挙げたものである。之は(元弘三年)四月九日、伯耆船上山の行在所から、出雲高保に参陣を促される為に出された綸旨である。文章は頗る簡単で、而もその中に賜った人の名が書いてある。この文書の原本は、長門国須佐の男…

充所のない後醍醐天皇の綸旨

料紙は薄様の鳥子で大きさは原寸が図版に示した如く縦三寸六部、横二寸二分、先に挙げた後醍醐天皇が五条頼元に賜ったものよりも更に小形である。この大きさよりも更に注意すべきは、この文書には充所と云うべきところがない。綸旨を賜った人の名は本文の中…

熊谷直平宛、後村上天皇の綸旨

熊谷彦八(直平)参御方、可致軍忠之由、被聞食了、有殊功者、可有恩賞者、 天気如此、悉之、以状、 正平六年五月十四日 右兵衛督(花押) ここに図版に挙げた文書は、後村上天皇の綸旨で、安芸の熊谷直平の来附を褒せらるる為に出されたものである。とのこ…

漉き返しでなく薄墨に染めた宿紙

この後京都御還幸迄に出された綸旨の料紙は悉く普通の紙の大きさのものであるが、中に白紙を用いたものがある。之は行在所に於いて宿紙を充分備える便宜を欠いていたに依るものと拝察される。尚吉野時代に於いては、宿紙を用いてもそれが漉き返しのものでな…

綸旨を奉じた千種忠顕

船上山より綸旨を下された以来のもので、今日に伝わる最初のものである。これより先この綸旨を奉じた千種忠顕を左近衛中将とし、蔵人頭に任ぜられているから、この綸旨は忠顕が綸旨始めの吉書として出したものと思われる。料紙は白紙を用いている。とのこと…

盛んに下された後醍醐天皇の綸旨

鎌倉時代以後になると綸旨の伝わるものが多くなり、殊に後醍醐天皇の御代元弘建武年間、次いで吉野時代に於いては、天皇の御親政であらせられた為、盛んに綸旨を下された。〔二六九〕に挙げたものは、後醍醐天皇が天皇一統政治の御再興を御発念あらせられ、…

原本最古、後冷泉天皇の綸旨

原本として伝わる綸旨は、前掲図版醍醐寺所蔵天喜二年の後冷泉天皇の綸旨であり、又宿紙に書いた綸旨の初見としては、同じく醍醐寺所蔵〔二六七〕崇徳天皇の〔天承元年〕二月二日夜居護持僧の綸旨である。之に次ぐものとして東大寺東南院に伝わった〔二六八…

醍醐寺に伝わる祈雨日記

綸旨の最も古いものは、〔二六六〕に挙げた後一条天皇の(万寿五年)四月十二日附の綸旨である。之は醍醐寺に伝わった祈雨日記と申す雨乞の御祈祷に関する記録の中に写し留めた文書であり、此記録は鎌倉時代の初期に書写した奥書を持っている。小野の仁海を…

白紙切紙の綸旨は略式

綸旨令旨にして切紙を用いられたものは、前記の如く延元元年後醍醐天皇の綸旨に始まり、吉野時代を通じて行われている。而して綸旨が切紙である場合には、必ず白紙であって、宿紙を用いられたものは一通も伝わっていない。要するに綸旨には宿紙を用いるのが…

髻の綸旨縒り込んだ事実はなし

髻の綸旨と云う言葉も髻に縒り込んだ事実も太平記等には見えていない。切紙を用いたのは、文書の携帯に便利にする為ではあるが、切紙を用いた古文書が皆髻に縒り込んで、携帯の便利を図ったものとは考え得ないのである。とのことです。

髻の中に縒り込むということは無かった

ほかの文書にはかかるものもあったが、綸旨或いは親王の御意を伝える文書令旨に限っては、よし切紙をその材料に用いても、之を正々堂々と送り奉ったものであって、髻の中に縒り込むと云うが如きことは無かったのである。とのことです。

髻の綸旨の由来は?

かかる切紙を綸旨の料紙に用いられた初見は、延元元年六月二十六日、鞍馬寺衆徒に向かい、義兵に参加するように促された時のものである。綸旨に切紙を用いられたのは、使者が之を奉じて送附するに当たり、髻の中に縒り込んだものであって、そこから之を髻の…

縦三寸、横三寸四分の鳥子紙

この綸旨の料紙は、薄き鳥子の白紙を用いられ、而もその大きさ縦三寸、横三寸四分に過ぎない小型の切紙である。(図版は原寸大に示してある。)とのことです。

後醍醐天皇の御遺勅の綸旨

(略) この文書は後醍醐天皇が崩御の前日、征西大将軍宮懐良親王に奉仕していた五条頼元に、御不予に依り後村上天皇に御位を譲らせられし由を告げ、若し不慮の御事があっても、従前に変わることなく朝敵追討に尽瘁するようにと御憑あらせられた、所謂御遺勅…

差出者受取者何れかが女子であると仮名交じり

それが奉書御教書になると、奉ずる者が女子であると仮名交じりであり、充所が右の綸旨の如く女子であると仮名交じりのこともあったのである。要するに差出者受取者何れかが女子であると、そこに仮名交じりの文章が用いられたのであって、之は消息書状、奉書…

充所が女子ならば仮名交じり

尚お右の綸旨は、文章が仮名交じりとなっている。之は充所が婦人であるから、かような文体をとったのである。消息書状は差出者が女子なれば、必ず仮名交じりであり、又男子が差し出したものでも、充所が女子であれば又仮名交じりであった。とのことです。

宿紙は綸旨ばかりでなく、院宣・御教書にも用いられる

然し必ずしも綸旨に宿紙を用いるとは限らず、鎌倉時代の綸旨で、白紙即ち普通の紙を用いているものがある。又宿紙は綸旨のみに用いたのでは無く、既に述べた如く蔵人の奉って出す口宣案或いは蔵人所の下文にも用いており、蔵人若しくは蔵人所から出す文書に…

薄墨の綸旨

この綸旨の料紙は、宿紙を用いている。綸旨は多く宿紙即ち漉返紙を用い、この紙の漉返したために、その色彩が薄墨色を呈しているところから、この紙を薄墨紙と申し、これから更に薄墨の綸旨と云う言葉も起こっている。とのことです。

北畠具行の母民部卿局宛、千種忠顕が奉じた綸旨

この文書は元弘三年八月六日、蔵人頭千種(六条)忠顕の奉じた後醍醐天皇の綸旨である。充所に民部卿とあるは、北畠具行の母民部卿局であって、具行は元弘元年八月、笠置山臨幸に供奉し、後捕らえられ幕府のために斬られた。民部卿がその菩提を弔うために、…

千種忠顕が奉じた綸旨

其例は東寺等の文書の中にある。将棊の駒形若しくは尖頭四角の如き数種の形式に分かれている。 下総国遠山形御厨領家并地頭職の事、申入候之所、永代知行候て、大徳寺ニ寄附之 条、子細あるへからざるよし、 天気候也、あなかしく、 八月六日 左中将忠顕 民…

軸のようなもの、籤

この綸旨は、原本として伝わるものの最古のものである。料紙は本紙礼紙二枚からなり、白紙を用いている。本紙の左端に軸の如きものが添えている。之は籤というものである。文書を巻いて保存するために作った一種の軸である。籤は奈良時代のものが正倉院文書…

蔵人が天皇の仰を奉じて発する奉書、綸旨

綸旨は蔵人が天皇の仰を奉じて発する奉書の一種である。この綸旨は、蔵人頭右近衛中将源隆俊が奉じたものである。仰に云う、今夜より参仕すべし者(てへ)れば綸旨此の如しの文言にて、綸旨を奉ってこの文書を出したことがよく分かる。とのことです。

夜居の護持僧役、醍醐寺座主覚源

第一式 日下署判奉書 第一種 綸旨 (略) この文書は、醍醐寺座主覚源を夜居の護持僧役(清涼殿の二間御寝所の東御本尊を祀れるところに伺候し玉体を護持し奉る役)に参勤せしむる勅命を伝えるために出された綸旨である。とのことです。

上位の者の意を承けて出す文書を奉書という

大体三位以上の公卿若しくは之に準ずるものの奉書を御教書と称したが、なおかかる地位に至らないものの奉書でも御教書と称することがあった。而して一般上位の者の意を承けて出す文書を広く奉書と称していた。なおこの種文書には文書を出す側の地位に依って…

綸旨・院宣・令旨

更に御教書奉書は、すべて上位の者の意を奉って出す文書であるが、その上位の者如何に依って、その奉書御教書に特別な名称が付けられた。蔵人が天皇の仰せを承って出す奉書は、特に他と区別して之を綸旨と申し上げ、院司が上皇法皇の仰せを承って出すものを…