個々の手形の過所とまとめた人馬数を示した定過所

次に幕府奉行人から出す文書の中に於て、過所と禁制とは必ずこの下知状を用いている。〔一五四〕は、文安六年二月五日、京都六條八幡宮筑前若宮庄神米四百石の運送に関する関所領免除の証文、即ち之が過所と申すものであるが、下知状の書式をとっている。〔一五五〕は、寛正四年九月廿八日、陸奥結城(白川)直朝が、幕府に進上する馬二十疋と、要用の為め上下往来する人百人の道中関所料免除の過所であるが、これ又下知状である。この後の過所に、彼印を以て勘過すべしとあるのは、如何なる意味かと云うに、幕府から印を捺した手形を白川家に渡して置き、白川から上る人馬は、その手形に上る人馬の数を記入して、それを持参して関所の役人に示して、関所料の免除を受け、京都から下る人は、幕府から同様の手形を受けて、関所の役人に示して、関所料の免除を受けることである。その各々の手形に記載する人馬の数が二十疋、百人に達する迄、関所料を免除する為めにこの過所を与えたのである。個々の手形も又一種の過所である。当時に於ては、幕府のもののみで無く、一般に過所にかように二種類あった。個々の手形を普通の過所と云い、まとめた人馬数を示した、即ち前記幕府奉行人の過所の如きものを定過所と称していることもある。とのことです。