秀吉と吉川経家の戦

次に〔四六四〕は、(天正九年)五月十九日、吉川経家因幡鳥取城中から、其郷国石見に残した家臣重富新五郎に、鳥取在城を中心にして、状況を知らせる為に送った書状である。信長は中国経略の大将として秀吉を下した。秀吉は先づ山陰に兵を進め、因幡の山名豊国を鳥取城に攻めて之を降した。然し同氏の遺臣に、安芸の毛利氏に救を求めるものがあったので、毛利氏は之と共に経家をして鳥取城に拠らしめた。秀吉は此城を劇しく攻めたが、経家堅守して容易に抜くことができなかった。とのことです。