2021-09-01から1ヶ月間の記事一覧

室町時代、書札礼が喧しくなった時代

室町時代に於ては、公武に亙って書札礼が極めて喧しくなって来た時代であった。而してその書札礼には文書の差出者と受取者との地位の相違に依って、種々の礼法が定められた。同一人の差出す文書に就いても、相手方如何に依って、種々に書き分けべきものであ…

充所の無い下知状は薄礼

この項に挙げた下知状で明かな如く、下知状には充所を欠いている。然るに奉書に於ては充所があるのが通例で、後項に説明の資料に出した室町幕府奉行衆の奉書にも、必ず充所が具わっている。かく充所が有ると無いとの相違は、一般古文書の礼法から観て、相手…

商人か工人が受けた下知状

右と同じ書式の下知状に〔一五七〕の如きがある。これは元亀元年六月二日、幕府奉行が禁裏御倉職を奉じていた立入宗継の買得相伝田畠等領有安堵の為めに出した下知状である。本文に見える所領の目録は、〔一五七〕の附録として示してあるものに当る。 かよう…

大徳寺塔頭訴訟裁許の下知状

禁制と略同じ類の文書で、広く衆庶に示す徳政等に関する掟書も、この下知状であった。その他のものとしては、次に示すような訴訟の裁許に関するものもあった。 大徳寺同諸塔頭大工職事、大工三郎左衛門尉宗久申子細之条、被遂糺明淵底之 処、於宗久者、無支…

下知状の書式をとる禁制(きんぜい)

次に〔一五六〕に挙げたのは、幕府奉行が享徳三年九月六日、京都東寺境内に掲げた禁制であって、同様下知状の書式をとっている。禁制には折紙のものは無い。然し之を紙に書かず、木札に書くものもあった。始め紙に書いたものを受けて、之を木札に写すことも…

「鳥の目」で現在位置の確認

野口悠紀雄『「超」勉強法』を再読し、その基本三原則の2番目に全体から理解する、「鳥の目」法が挙げられているのにならい、「鳥の目」で現状を把握しましょう。 いまは「中編 古文書の形様」に入っています。 第一部 公式様文書 第二部 平安時代以来の公…

病気という語を忌んで、「歓楽」と書く

尚お前掲二通の過所の中、先のものは料紙が折紙で、後のものは普通の竪紙である。過所にはこの両様の区別があった。後のものの形式が、丁重な書礼である。又先の過所の差出所に、歓楽と書いて花押の無いのは、その折奉行が病気の為めに、花押を書くことが能…

個々の手形の過所とまとめた人馬数を示した定過所

次に幕府奉行人から出す文書の中に於て、過所と禁制とは必ずこの下知状を用いている。〔一五四〕は、文安六年二月五日、京都六條八幡宮領筑前若宮庄神米四百石の運送に関する関所領免除の証文、即ち之が過所と申すものであるが、下知状の書式をとっている。…

将軍職に事があったときに出す下知状

鎌倉時代以後、下知状は如何になったかと云うに、足利将軍家の執事高師直が、仰を奉って下知状を出している。〔一五〇〕はその一例、暦応四(興国二)年八月七日、山城大山崎神人に対して、八幡宮内殿燈油料荏胡麻の関所料免除の裁許に関して出したもので、…

母松下禅尼の仰せを奉った北条時頼の珍貴な下知状

次に幕府探題奉行以外の者から下知状の式で出したものに、左の如き文書がある。 可令早平清度致沙汰丹波国野口庄内牧外方下司代職事、 右以人為彼職、任先例可致沙汰之旨、依尼御前仰、下知如件、 寶治二年八月八日 (花押)(北条時頼) 上の図版は、北条時…

長文の鎮西下知状

なお鎮西下知状の一例を示すと、〔一四九〕の如きがある。この文書は、元徳元年十月五日、薩摩日置北郷弥勒寺庄下司眞忠と一方地頭島津宗久代官道慶との同郷内吉利名の相論に対して下した下知状である。文中に島津家の初祖忠久が薩摩伊作庄地頭職拝領の事、…

鎮西下知状或いは博多下知状

下知状は、鎮西探題からも出している。上の図版に挙げるものはその一例である。 薩摩国伊作庄地頭下野彦三郎左衛門尉忠長(久長)代行長申小船壹艘事、 右如訴状者、当庄住人弥平五以下輩、対同国市来院住人志布志入道、令借用小舟壹 艘之處、件船於海路破損…

佐藤進一氏の「鎌倉幕府訴訟制度の研究」に據る

なお下知状は、裁許状として出る計りでなく、禁絶すべき事項を衆庶に知らせる禁制として出ることもある。〔一四七〕はその一例、文保三年三月十六日、高野山金剛三昧院領播磨在田上庄の殺生禁断のために出した下知状である。内容は異なっても、書式に異なる…

所領充行は下文下知状、所領安堵は外題安堵

この規定が何時成立したかは判然としない。然るに嘉元元年即ち将軍久明親王、執権の師時、連署の時村の時代から、安堵の手続が終了すると、安堵下文、下知状を別に下さず、此の譲状のように譲状の端の余白に、この譲状に任せて領掌して差支なしと云うことを…

譲状の外題安堵

さてこの譲状の端に別筆で四行大書してあるのは、将軍家の外題安堵、或は外題安堵状とも申すものである。外題とは当該文書にその申立に対する指令を記したものをいう。元来御家人は生前にその所領を男女の子息等に処分して置くのが当時の慣習であった。若し…

譲状の外題安堵状

「(外題)任此状、可令領掌之由、依仰下知如件、 元亨二年十一月廿日 相 模 守(北条高時)(花押) 修理権大夫(金澤貞顕)(花押)」 ゆつりわたす、あきのくにをわさのほんしやうえたむらのうちをゝつかめかはらを は、わうくまにゆつりたひ候ぬ、よのこ…

承久以前は日下、承久以後は日附の次行

この下知状の書式は、承久以前のものに於いては、奉者が数人で連署する場合、その中の一人の位署は、必ず日下に加えてある。承久以後のものに於いては、執権単独一人の署判でも、執権連署の連判でも、日附の次行に位署を加えているのが通例である。この点を…

裁許の「御下知」にあわせて下知状と呼ぶこととする

右に挙げた二様の文書の出ている場合を通観すると、将軍家から将軍の袖署判の下文、もしくは政所下文を出すものに代えて出している。従ってこの点においても、この種文書は下文と密接な関係がある。かように下文と関係があったうえに、第一種のものは既説の…

下云々の一行がなく、事書から始まる下知状

右の文書は、前項に挙げたものにある始めの下云々の一行を欠き、直ちに事書から書いてある。終りの部分の書式は前項に挙げたものと全く同じである。之も旨を奉って出した文書である。即ち執権北条義時が尼将軍政子の仰を奉じて出した形式のものである。 この…

新補地頭の濫妨をとどめる下知状

なおこの下文と称する文書に連関して更に説くべき文書がある。 下知状第二種 可令早停止為阿波国櫛淵別宮地頭秋本二郎兵衛尉代官背庄務擇取神民相伝能田濫 妨農業事、 右、如訴状者、為新地頭秋本二郎兵衛尉代官擇取神民等相伝之能田、号地頭分令領 作之間、…

当時下文と称していたが、明らかに相違がある下知状

右三通の文書は、叙上の如く細かい書式には多少相違したところがあるが、大体同様のものと見做して差支えない。書出しの部分は全く下文と同じであるから、この点を重視すれば当然下文と称すべきものであり、当時左様に呼んでいた。ただし将軍の仰に依って云…

奉行衆と執権・連署の下知状

〔一三九〕に挙げたものは、建永元年七月十四日、鎌倉幕府の奉行衆が実朝の仰を奉じて出した文書であるが、書式は先の時政の奉じたものと大体同様で、唯異なる点は書止めに下知如件とある上に更に以下の二字が添えてあることである。また〔一四〇〕に挙げた…

下文の形式と同じ、書止めのみ異にする下知状

第四類 下知状 第一種 武家下知状 下 加賀國井家庄地頭代官所 可早且停止自由狼藉、且致撫民計、従領家御下知事、 右當御庄者、重役異他御庄也、而地頭代官以新儀非法為業之間、土民不安堵、公物 難済之由、有其訴、早停止自由之狼藉、任先例可致沙汰之状、…

下知状と下文変形文書

叙上下文の一項を立てて、官宣旨に系統を引く下文の各種形式のものを順次説明して武家の袖判の下文に及んだ。この系列の中に於いて、袖判を加えた下文の出現は、書式の上に於ける著しい変化ではあるが、尚書き出しに下と記し、その下に充所を記している。従…

古い形式の文書の復活を試みた大内氏

以上は足利将軍家に関することであるが、将軍家に倣ったものであろう、管領守護人の中にも、この式の下文を出す者があった。まず〔一三六〕に示したのは、貞和三年(正平二年)十月十九日、高師直が、山中辨房に武蔵国男衾郡内形田郷四分一を与えるために出…

足利将軍家最後の袖判下文

ただし、直義の下文には所領安堵に限らず、他の場合のものもあった。尊氏のものに至っては安堵の場合のものはまず現存していない。また直義の下文の書式は、最初からここに説いている書式の下文を出したのでは無く、直義の地位の向上するに従って、この書式…

所領充行(あておこない)は尊氏、所領安堵は直義

なお当時所領安堵のためには、尊氏から下文を出さず、直義がこれに代わって出していた。而してその下文の形式は、尊氏の下文と同じものもあった。足利氏が鎌倉の将軍家の下文と同じ形式のものを出していたことは、注意すべき事実である。しかるに尊氏直義の…

北条時行の乱の勲功賞としての下文

鎌倉幕府の滅亡後、この式の下文は如何になったかというに、足利氏に於いては、先代の時の如く引続きこれを用いている。即ち〔一三四〕に示した如く、元弘三年十二月廿九日、尊氏は安保光泰を信濃国小泉庄内室賀郷地頭職に補任するためにこの式の下文を出し…

宮将軍の下文と間違えられる北条・足利氏の下文

更に下って足利氏の如き、鎌倉時代に於ける守護人として有力であった者も、将軍并に北条氏と同じ形式の下文を出している。〔一三三〕はその一例で、嘉元三年八月十四日、尊氏の父貞氏が粟生四郎入道等に、三河国額田郡内秦梨子郷司職を従前の如く領知せしめ…

将軍家は地頭職、北条氏は地頭代職を補任

次に〔一三〇〕は、寛喜元年七月十九日、将軍藤原頼経が、常陸国の御家人真壁時幹をして、その父友幹の譲状に任せ、その遺領を襲領せしめるために出した文書である。当時かかる所領を襲領すべきことを許す文書を安堵の下文と称した。頼家以後に於いては、こ…